大草太郎左衛門

大草家と連城寺

大草家は代々幕府直轄の代官を勤めた。その先祖は、長田喜八郎広政で三河国大浜に住んでいた。

広政の嫡子の平右衞門重元は永井を称し、次男の八右衛門重吉は長田を称していた。重吉の嫡子は嘉兵衛政吉と称し三河国設楽郡大草村の出身であった。

政吉は家康の御小姓役を勤め、後に遠江国山名郡新貝村の永田三郎次郎家に養子として移住してきた。

これにより長田を永田と改め「永田三郎次郎政吉」となる。政吉は新貝村で八幡宮の神職を勤め120石を知行していた。

そして石高552石5斗2升を開拓して太田川の畔に豪壮な邸宅を構え子孫永住の地とした。

元亀元年(1570年頃)家康の入国により召され仕え、忠君に励んだ。その成果として和口郷において2000石を賜り御厨庄の代官にとりたてられ鎌田郷の御殿番となった。名前も「三郎次郎」から「太郎右馬」と改めた。橋梁架設や新田開発等を成し遂げ鎌田原一帯の発展や住民の生活向上に寄与した。1615年、剣地の為甲斐国に赴く途中、富士山麓で死す。

政吉には男子がいなかったので二代は三河の譜代大草次郎右衞門義正の嫡子政次を娘婿に迎え代官となった。家康の御前へ召される都度「大草」「大草」と呼ばれるところから、家康の命により永田性を大草性に改め、「大草太郎右馬政次」となる。

政次の嫡子政家も代官となるが父より先に亡くなったため三代は政家の嫡子政信が継ぐ。

13歳で代官となり驚異的な記録の71年間代官を勤めた。

江戸へ年税の米を船にて運搬する時、それ以前は事故無く船で無事運搬できていたが、政信の代になると回船が風波の難に遭遇することが増えた。

遠州灘御前崎浦は昔から馬具を積んだ船は忌み嫌われるとの迷信があった。「大草太郎右馬政信」は船に馬具は積んでいないが、自分の名前の「太郎右馬」の「馬」が原因ではないかと思う。

家康の命名であるところから「太郎」は残し「右馬」を「左衛門」に改め「大草太郎左衛門政信」と改名した。その後は海難事故が無くなったとのことである。

また、現在の連城寺は正保元年(1644年)政信がその荒廃を嘆き曹洞宗の寺院として再興した。

政信の子政次も父とともに代官職を勤めるが父親より先に亡くなったため四代は政信の孫の政清が継ぐ。

政清は遠江、駿河、信濃、上総、下総、安房、常陸、備中と幕府領中枢の代官所を歴任したとのことである。

六代政永は信濃に大草防堤を築堤し治水政策進めるなど歴代の中でもひときわ輝かしい功績を残した。

五代政英、七代政美、八代政明は勘定奉行属し遠江、信濃代官を継承した。

九代政董、十代政郷親子は仁徳を称えられ信濃中野に大草稲荷、備中賀陽に大草神社としてそれぞれ祭祀されたことは卓越した功績があったものと思われる。

十一代政修は備中、越後、但馬、石見、常陸、下総、陸奥の代官を勤めた。

十二代政徳は駿河、信濃、越後の代官を勤めた。

明治維新後は代々続いた世襲代官職の幕は閉じその後は東京府士族となった。

連城寺裏山(古墳)に歴代の墓地が四季おりおりの樹木の音を友にして静かに眠っている。

現在も大草代官と関係のある子孫で構成されている大草顕彰会の方々が墓地を守り、毎年供養祭を行っている。大草顕彰会の代表は4代政清の弟、周軒重親の子孫である袋井市国本の大草家が代々勤めている。