連城寺について

連城寺 住職挨拶

連城寺のホームページへお越し頂きありがとうございます。

私は平成24年に連城寺三十世住職を就任いたしました馬場宣明(ばばせんみょう)と申します。

連城寺は1179年、天台宗の寺院として平清盛の長男である平重盛が建立し、江戸時代に曹洞宗に改宗されました。

現在は曹洞宗に属し、総本山は福井県大本山永平寺及び横浜鶴見の大本山總持寺、御本寺は袋井市秋葉総本殿可睡齋です。

連城寺は、磐田市の東部、東海道本線と太田川が重なる地域に位置し、ヤマハ発動機をはじめとする工場や、新興住宅、田園に囲まれています。

令和2年にはJR御厨駅も開設され交通の便も良くなりました。

現在、お寺の在り方について問われることが多く見られます。お寺はその時代を生きる人々の悩みや想いに対応する必要があると思います。

人々の悩みや想いに応え、人々に安心と安らぎ、喜びを与えることが出来るお寺。そんなお寺を目指して頑張っていきたいと思います。

連城寺住職 馬場宣明

住職略歴

1967年、連城寺二十九世馬場照文の長男として生を受ける。

地元の高等学校卒業後、大学の経営学部を卒業。

卒業後は大手証券会社の営業マンとして四年間勤務。

その後、曹洞宗大本山總持寺にて修行。

修行後は連城寺副住職とともに地元消防団や知的障害者の支援に従事。

平成24年、連城寺三十世住職に就任。

三白山 連城寺について

  • 宗派 曹洞宗
  • 本尊 聖観世音菩薩
  • 本寺 可睡齋

連城寺は山号を三白山といい、曹洞宗の寺院です。

平安末期の武将である平清盛の長男、日本三忠臣の一人といわれる平重盛が平安時代(治承3年・1179年)、遠江守の時に天台宗の寺院として建立したと伝えられており、連城寺の寺名は平重盛の法名(戒名)「城連(浄蓮)」に由来しています。

寺伝によると、重盛の父親である平清盛は専制をもって平氏の政権を樹立しましたが、その陰で不運をのんだ多くの人々に恨まれていたといいます。

それを知っていた息子重盛はその報復を怖れ、諸国に寺院を建立しました。連城寺もその一つと言われています。

平氏滅亡後は寺も必然的に廃され、鎌倉室町時代の頃は寺号のみを残す状態であったといわれていますが、江戸時代 天正年間(1573~92年)に曹洞宗に改宗し、可睡斉11世勅特賜鳳山禅師仙麟等膳大和尚を勧請開山としました。

しかし、その後また荒廃したが正保元年(1644年)、徳川家臣である中泉代官大草太郎左衛門政信によって再興され現在に至っています。

連城寺裏山(秋葉山古墳)に位置する墓地には、平清盛と平重盛の供養塔あり。本堂には平清盛と平重盛の位牌が安置されています。

寺院の背後には4世紀に造られた稲荷山古墳、秋葉山古墳あり。歴史に満ちた寺院です。

連城寺の涅槃図(ねはんず)

涅槃図とは、お釈迦様が入滅(お亡くなりになること)した時の様子を描いたものです。

お釈迦様が入滅されたことを「涅槃(ねはん)に入る」ということから、この絵を涅槃図といいます。「涅槃」は死ではなく静寂を意味します。

連城寺涅槃図

涅槃図の上方に雲の上から下ってくる一団があります。摩耶(まや)夫人(ふじん)の一団です。摩耶夫人はお釈迦様のご生母です。

連城寺涅槃図 摩耶夫人の団体

周囲には、お弟子、信者はもちろん鳥獣までもが永久の別れを泣き悲しみ、草木もが痛哭する画であります。

連城寺涅槃図連城寺涅槃図

お釈迦様の涅槃図のお姿は、頭を北に、お顔を西向けられたことから「頭(づ)北面(ほくめん)西右脇臥(さいうきょうが)」といわれ、これが「北枕(きたまくら)」の起源になっています。

連城寺涅槃図 お釈迦様

連城寺の涅槃図の制作年月は不明でありますが記録によると1647年に寄贈されているので、おそらく江戸時代前期の作と推定されます。また、作成中に村で女性が自殺したため、供養のためにその女性を特別に涅槃図に描いたといわれています。

連城寺のお部屋

法要法要
書院